私自身は漢方医学と並行して中医学を学習し始めて十数年間になるが、その過程で、漢方医学を批判的に眺めはじめたきっかけ(文献⑤)は虚実の問題からであった。
漢方医学の考え方において、体質及び方剤を実証、虚証、虚実中間型に分ける特有のやり方には、多々問題があるように思われる。
体力が余っているのを実証、体力が衰えているのを虚証と決めるやりかたは非科学的であり漠然とし過ぎている。
実証用、虚証用、或は虚実中間用とされる方剤にしても恣意的な感を免れない。
それに比較して、「実とは外因、内因を含めた病邪の存在を言い、虚とは生体の機能面、物質面の不足を意味する」と規定する中医学のありかたにおいては合理的な病態把握が可能である。
即ち、多くの病人は、とりわけ慢性疾患の場合、虚実混交しているのが一般であり、それ故、「扶正去邪」の治法が自明のこととなる。
ところが漢方医学に従っていると、体力の強弱のみで虚実を論じ続けるあまり、病邪の存在の問題を忘れ兼ねない。
例えば、桂枝茯苓丸を実証用、加味逍遙散を虚実中間用、当帰芍薬散を虚証用として恣意的に決め込んでしまい、同一の病人に、これら三処方すべてが同時に必要とする病態が存在する発想すら浮かんでこない(文献③)(文献⑥)。
尤も、これは敢えてエキス製剤で投与する場合の話で、湯液で行う場合はもっと合理的な処方が可能であるが、これはもっぱら中医学理論における弁証論治でのみ成し得ることである。